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IPI創業者・IPN共同創業者

Ibrahim Phiriイブラヒム・ピリ

IPI創業者・IPN Tennis Tour CEO兼共同創業者CEOからの手紙:なぜIPNは存在するのか

今、ニューヨークで暮らしている建物の51階から、この手紙を書いている。 この屋上から見える街のスカイラインは、不思議なくらい穏やかだ。

穏やかだ。IPNがそんなふうだったことは、ほとんどない。

東京で会議の真っ最中だったとき、大阪にいた南アフリカ人と日本人のスタッフから電話がかかってきたことを覚えている。 食中毒と、コロナかもしれないという騒ぎだった。 マイアミにいたとき、政治的な抵抗がどこまで及んでいたのかを知ったことも覚えている。

24歳のとき、現職大統領のきょうだいが、アフリカ各国のテニス統括団体すべてにメールを送り、僕らの最初の大会を止めるよう求めているのを目の当たりにした。殺害予告まであった。テニスのことで。

運営上の悪夢もあった。 政治的な抵抗も、スポンサーの問題もあった。 人が病気になり、人が辞めた。 やめるほうが合理的に思えた瞬間は、数えきれないほどある。

僕らはやめなかった。 僕もやめなかった。

今日、何か特別なことがあったわけじゃない。 節目でもない。 発表もない。 だからこそ、ここまで来た距離が、いつもよりはっきり見えるのかもしれない。

ずいぶん遠くまで来た。 けれど、たぶん、ここから先のほうがずっと長い。

今こうして街を眺めていると、何度も同じ教訓に戻ってくる。

すべて正しくやっても、負けることはある。 それでも明日、またコートに立つ。

IPNが存在するずっと前に、僕はそれをテニスコートで学んだ。

子どもの頃、僕にはインターネットを使う自由もなかった。学校かマドラサへ車で送り迎えされるとき以外、家を出ることも許されなかった。 だから、想像力を使うしかなかった。 画面の中の登場人物を通して、外の世界を生きるしかなかった。

そんな世界の中で育つと、自分は有能で、何も欠けていないように感じる。 家族や友人からは、人生に選ばれた神童の一人みたいに扱われていたし、求められれば一番を取った。

もちろん、いつもじゃない。 そんなの疲れすぎる。

そんなある日、数学の授業で隣に座っていたやつが、その世界の外へ出ていった。

国際大会に出る。 知らない街を見る。 知らない人に会う。 違う空気を吸う。

そして帰ってきて、その話をする。 その話を聞いたとき、不思議と自分が小さくなったわけじゃなかった。

ただ、他にも世界があることに気づいた。 目が覚めた。 自分もそこへ行きたくなった。

そんな冒険を追いかけるように、少年だった僕は国立スポーツクラブへ向かった。 かわいい外国人の女の子たちに会いたかったからだ。 そして、まさかの、その子たちの前で負けた。

本気でやっているのに、壊滅的な恥をかく。 あれを経験できるのは、人生の本当の恵みだと思う。 そんな経験をせずに生きられてしまう人が多いのは、正直もったいない。

痛み。 美しさ。 激しさ。 僕には、簡単に言葉にできない。

テニスを軽く語ろうとすると、あの感覚をもう一度生きることになる。 僕には、それが少し耐えがたい。 だからこの手紙で、一度すべてを置いていこうと思う。

中でも一人、ずっと僕に勝ち続けていた選手がいた。国内ジュニアのナンバーワンだった。みんな、僕は一生かかっても彼を超えられないと言っていた。僕は始めるのが遅すぎた。5歳で競技としてラケットを握らなかった時点で、僕の限界はもう決まっている。そう言われていた。

僕が育った環境では、強い選手は自分より弱い選手とはほとんど練習しなかった。自分より弱い相手とやると、自分まで下手になる。そう考えられていたからだ。アメリカでは、その壁がなくなった。僕は毎日、自分より強い選手たちと練習し、試合をしていた。

何年も経って、僕が20歳、彼が18歳のとき、僕は彼に勝った。ずっと僕に勝っていた、あの選手に。

勝ったこと自体には、それほど意味はなかった。そこまでの道のりが、すべてだった。

今振り返ると、彼は今も友人だから本人の気持ちを代弁することはできないけれど、彼もまた、自分自身の見え方にひびが入るような感覚を味わったのかもしれないと思うことがある。

僕がAを選んだところで、彼はBを選んだ。 彼はその一、二年後、テニスを完全にやめた。

あの閉じた世界でも、その後に入ったいくつもの世界でも、僕は外から来た人間だった。 そして、僕らみたいな人間が、ときどき、現実に勝手に引かれた地平線を、その先へ押し広げるんだと思う。

でも、テニスが僕にくれた一番大きなものは、勝てるようになったことではない。 この競技の中で育ちながら、ポイントの合間に自分へ怒鳴り、ラケットを投げ、壊しながら、僕は一つの容赦ない事実を学んだ。

すべて正しくやっても、負けることはある。 それでも明日、またコートに立つ。

それを何千回も繰り返すと、報われて当然だという感覚も、迷信も、言い訳も死んでいく。 現実と交渉するのをやめて、現実そのものを見るしかなくなる。

僕がテニスを単なる娯楽やステータスだと思っていないのは、そういう理由だ。 テニスは、努力、敗北、時間との向き合い方そのものを組み替える機械だ。

しかも、ほかのものではなかなか同時に鍛えられないものを、一気に要求してくる。

  • 完全な自己責任。
    コートに立てば、隠れる場所はない。
  • 上手くなるまで続く、長い敗北。
    何かがつながるまで、何年も負け続ける。
  • 屈辱の中での反復。
    人前で、何度も、何度も失敗する。
  • 疲労の中での判断。
    体が焼けるように苦しくても、正しい選択をしなければならない。
  • 感情を制御する力。
    これは必須条件だ。
    頭を失えば、たいてい試合も失う。
  • 時間に追われる中での正確さ。
    わずかな差も許してくれない。
  • 買収の効かない実力主義。
    ボールは、あなたが誰かなんて気にしない。

苦しみそのものを自分のものみたいに語るつもりはない。 でも、僕はそれを身近に見て育った。

ハングリーさ。 その場で道をつくる力。 忠義。 立ち直る強さ。

僕をつくった環境では、それらは本物だった。

珍しいのは、それを大勢の人間に、仕組みとして繰り返し鍛えさせる場所だ。

  • 一人でも自分を律すること。
  • 長い時間軸で集中すること。
  • 感情を抑えること。
  • 誰にも拍手されない退屈な反復。

テニスは、それを強制的に身につけさせる。 僕にもそうした。

僕らの周りにある多くの環境は、むしろ逆を教える。 何かが失敗すれば、原因を外に求める。 あるいは、すぐに別の道へ逃げる。 テニスでは、その心理のままでは生き残れない。

ある集団がテニスを深く学んだとき、育つのはアスリートだけではない。 物事を動かせる人間が育つ。

失敗が続いても、取り乱さない人間。 小さな改善が複利のように積み上がることを理解している人間。 プレッシャーの中でも感情を制御できる人間。

何年でも、一人で努力と向き合える人間。 続けるために拍手を必要としない人間。

そういう習慣は、別の世界にも持っていける。 エンジニアリングでも、資本市場でも、外科でも、リーダーシップでも、会社をつくることでも意味を持つ。 求められるものが似ているからだ。

プレッシャー。 反復。 判断。 そして、報われるまで待つ力。

ここからが、多くの人が見落としているところだと思う。

形だけをまねる場所は多い。 コート。 ラケット。 大会。

でも、その苦しみが何を意味するのかまで伝える場所は、ほとんどない。

だからIPNは存在する。

僕は、テニス大会を開きたくてIPNを始めたわけじゃない。 大会の予定表に、また適当な大会を増やすためにやっているわけでもない。 僕らがやろうとしているのは、ある種のOSを産業規模まで広げることだ。

アフリカには、すでにハングリーさと立ち直る強さがある。 テニスは、抑制、忍耐、正確さを教える。 抑制のないハングリーさは、燃え尽きる。 正確さのない粘り強さは、同じ場所に留まり続ける。

僕自身が、その変化を経験した。 だから見える。

もしこれがアフリカだけの話だったとしても、やる価値はある。 でも、僕の人生を振り返ると、日本への橋は避けようがなかった。

正直に言う。 日本は、僕が人生でいちばん一貫して「受け入れられてきた」と感じる国だ。 抽象的な話をしているわけじゃない。

10代の終わりにニューヨークへ移ったとき、何年もの間、僕の一番近い友人は、僕より5歳ほど年上の日本人だった。

今の僕は、どこにいても、誰といても、その場を引き受けようとする。

会計。次の冒険。困っている人。

僕と一緒にいる人には、何もかもちゃんと回っている、と感じていてほしい。

それが教えだったと気づく前に、僕はもう学んでいた。

僕はかなり裕福な家庭で育った。 でも、人生は長い。 10代の終わりには、事情が変わっていた。

アメリカに移ったとき、最初の食事だけで全財産の半分が消えた。

華々しい始まりとは程遠かった。

僕はただの、テニスに取り憑かれたアフリカ人の若者で、ほとんど何も持っていなかった。

僕がどんなふうに育ったかという話も、 子どもの頃ずっと画面越しに見ていた世界を目の前にして興奮する僕の様子も、 彼にはどこか面白かったらしい。

だから、いい友達らしく、彼はその世界を僕に見せてくれた。

人生で初めて行くような五つ星のレストランに、何度も連れていってくれたのを覚えている。

伝票のゼロの数を見るたびに胃がきゅっとなったけれど、毎回、彼が払ってくれた。

服の着方を教えてくれた。

自分がそこにいていいなんて想像したこともなかった場所で、どう振る舞えばいいのかを教えてくれた。

ほとんど何があっても、僕の味方だった。

彼には、当時の僕にはまだ言葉にできない空気があった。

それを、言葉を持つ前に僕は覚えた。

何もかも、ちゃんと回っていた。

あの年頃なら、まったく違う振る舞い方を身につけていてもおかしくなかった。

でも、僕には、あれが普通になった。

何年も経った今、気づけば僕も同じことをしている。

払えるなら、僕が払う。 一人でも、十五人でも。

ただ僕に成長してほしいという理由だけで、誰かが自分を世話してくれる。

当時の僕は、そういうことがどういう意味なのか、本当には分かっていなかった。

それも彼が教えてくれた。

今の僕の振る舞い方のかなりの部分は、彼から始まっている。

そして、苦しい子ども時代に、現実から逃がしてくれて、正気を保たせてくれた物語は、日本人のクリエイターたちが書き、描き、アニメにしたものだった。

それから何年か経って、20代半ば。 また別の日本人が、僕の最も近い友人の一人になった。 彼はすでにかなり成功していた起業家で、僕にとって初めての本格的なビジネスディールのとき、いちばん必要なところで助けてくれた。

それと同時に、彼は僕がワイドグリップの懸垂を一回もできないことをよく笑っていた。 別に、モチベーショナルスピーカーみたいに励ましてきたわけじゃない。 ただ、ものすごく短い言葉で、その弱さを笑われた。 それが妙に刺さって、見ないふりができなくなった。

僕は毎日ジムに行くようになった。 そして毎日トレーニングするだけでは足りないから、食べ方まで変わった。 145ポンドくらいだった体重は、183ポンドまで増えた。 やがて、ワイドグリップの懸垂を16回できるようになった。

でも、懸垂そのものは、ほとんど本質ではなかった。 16回できる人間になるには、一回もできなかった人間とは、身体的に別の人間になる必要があった。

体が変わった。 エネルギーが変わった。 歩き方が変わった。 自分の扱い方が変わった。

僕が「ある人たちは、自分にとって鏡だった」と言うのは、そういう意味だ。 彼らは必ずしも座って僕の弱点を説明してくれたわけじゃない。 ただ、ときどき何かをあまりにもはっきり映し返してくる。 そうすると、同じ人間のままでいることのほうが難しくなる。

IPNに最初に本気で目を向けてくれた多国籍企業も、日本企業だった。 そしてもちろん、IPNそのものも、日本人の共同創業者と一緒につくった。

これはどれも、最初から市場仮説として考えた話じゃない。 先に、僕の人生で起きた。

僕をつくった南部アフリカの環境は、ハングリーさ、即興力、立ち直る強さを教えてくれた。 僕の人生に入ってきた日本人たちは、抑制、正確さ、人を気にかけること、そして自分をどう扱うかを教えてくれた。 IPNは、その二つの学びが交わる場所にある。

表から見えるのは、こういうものだ。

  • 南部アフリカと日本にまたがるサーキット。
  • 物語を伝えるメディア。
  • 成績、行動、人々の関心を追うソフトウェア。
  • 騒がしさではなく、責任を持ってやり切った仕事に報いるIPI。

でも、その下にある本当の仕事は、大勢の人の心のあり方を変えることだ。

僕らがきちんと仕事をすれば、これからの10年で何十万人、やがて何百万人もの若者が、この仕組みを通じて次のことを学ぶ。

  • 長い間負け続けても、平静でいること。
  • 恥に押しつぶされず、自分の責任を引き受けること。
  • 怒りを、破壊ではなく燃料にすること。
  • 一発の奇跡ではなく、小さな優位を複利のように積み上げて考えること。
  • 努力と時間を、罰ではなく投資として扱うこと。

そこまで広がれば、これはもう「かっこいいテニスツアー」では終わらない。 一つの世代が、何を可能だと信じるか。 プレッシャーの中で、どう行動するか。 そこにまで影響する。

IPNだけで大陸を「立て直す」なんて言っているわけじゃない。 僕が言っているのは、もっと単純なことだ。

これを正しくつくり、意図した規模まで育てることができれば、人生からそれを求められるずっと前に、もっと多くの人が、プレッシャーの中で平静さ、責任、正確さを何千回も練習していることになる。

そして、この手紙は一人の創業者の頭の中にある設計図を書いたものだけれど、会社そのものは一人でつくったものじゃない。 20代半ばからの親友でもある共同創業者がいなければ、IPNは完全なものにはならなかった。

彼がなぜこれを始めたのか。 それは僕が語る話じゃない。

でも、あのシャイで愛国心の強い日本人も、いつか自分の理由を話すと思う。 会社がスケールする段階では、僕らの役割が入れ替わる可能性も高い。

まあ、縁起でも担いでおいてくれ。

全部、僕がこれをぶっ壊さないことが前提だけどな。

プロフィールと公開記録

  1. Twine Phiri:アフリカのスポーツ界の巨頭

    「息子を理解するには、父の物語をたどればよい。父の物語は、息子の中に息づいている。」

  2. IPN Tennis Tour

    ツアー公式サイトIPNの公式企業サイト。

  3. イブラヒムがIPIをつくった理由

    IPI誕生の経緯アフリカ南部と日本で300人以上をまとめた本人の経験。

  4. PCF Annual Hamptons Galaに出席したIbrahim Phiri

    Getty Imagesの報道写真記録ニューヨーク州ウォーターミルでの出席を氏名付きで記録。アセット番号2168118994。

  5. IPNテニスツアーが日本のビジネスをアフリカ市場へ導く

    Sportsmania掲載の発表CEOのIbrahim Phiriと東京訪問の予定を紹介。「イブラヒム・フィリ」の表記を使用。

  6. IPNテニスツアー、日本企業とのパートナーシップ・プログラムを開始

    PR TIMES掲載の発表日本企業のスポンサー募集を発表。CEOを「イブラヒム・ピリ」と紹介。

  7. テニスを通じてスポーツ外交の未来を切り開く

    PR TIMES掲載の発表9月の企業との面談予定と、大阪でのイベント計画を紹介。

  8. 衰退する日本経済に新たな“大テニス時代”の可能性

    PR TIMES掲載の発表初のアフリカ南部サーキットの終了、広告なしで50万回を超えた視聴、日本企業との協議を報告。

  9. 2024年PCFガラのプログラム

    Society Beeのイベント報道ガラでのマイケル・ミルケンとイーロン・マスクの対談を報道。

  10. Ibrahim PhiriのCrunchbase

    人物データベースIPN Tennis TourのCEO兼共同創業者として掲載。

  11. Ibrahim PhiriのLinkedIn

    本人の職歴紹介IPN、日本での活動、テニス、事業経験についての本人の紹介。